御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)
1.ヨハネの福音書6章35節―40節
2.ローマ人への手紙5章6節―10節
3.エペソ人への手紙2章1節―9節
安息日に三十八年も病気であった人を癒されたためにイエスさまを殺そうとするようになったユダヤ人たちに「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思うものにいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書5章21節―24節)」とイエスさまを信じる者はすでに永遠のいのちが与えられていることを語っています。今も流行っているかどうかわかりませんが、イザヤ書43章4節の前半の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」を引用して、未信者の方に「神の目にあなたは高価で尊い存在なのです」という方、チラシなどに印刷されているのを見ましたが、イザヤ書43章4節の後半には「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」とあり、43章1節―3節を見ると神の目に高価で尊い者とされているのは贖われたものにのみ語られていることがわかりますが、未信者の方に「神の目にあなたは高価で尊い存在なのです」と語っている先生の十字架についてのメッセージを伺ったことがありますが、その牧師先生は「御子イエスさまを十字架にかけなくてはならないほど人間は罪深い者なのです。」と言う代わりに、「御子イエスさまを十字架につけられたのは、神にとって人間はとても尊い存在だからです。」と言われましたが、今日の聖句は「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とイエスさまを信じている状態と信じていない状態の違いを語っています。神は罪と妥協することはできず怒りが臨みますが、御子イエスさまをお遣わしになり、十字架の死をもって罪の解決を与えてくださったのです。ですから、イエスさまを信じた者は神の怒りからも救われているだけでなく(ローマ人への手紙5章9節)、イエスさまを信じていても肉の思いでみことばを知っていても、そのみことばに生きないような時がありますが、イエス様は私たちの弱さをよくご存知で、キリスト者が罪に定められないようにとりなしていてくださるのです(ローマ人への手紙8章33節―34節)。罪や死だけでなく神の怒りからも救われていること、永遠のいのちが与えられていることを感謝して生きようではありませんか。