狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章13節―14節)

1.マタイの福音書1916節―26
2.ヨハネの福音書539節―44
3.ヨハネの福音書10119
4.ヨハネの福音書141節―6

キリスト教は他の宗教と妥協できない狭さがある、と言う方がおられますが、それは宗教と神との違いを、宗教心と信仰の違いをご存知ないことにあるのではないでしょうか。人はとかくどんな宗教でもちょうど富士山を登頂するのと同じで、富士吉田ルート、須走りルート、御殿ルートや富士宮ルートからでも、登り口、すなわち門は違っても、行き着く先はみな同じ頂上に達すると考えがちですが、キリスト教も数ある宗教の中の一つ、と考えてしまうなら、そこには盲点があります。そもそも、新興宗教をはじめ、いわゆる一般的な「宗教」は人間の考えや世全体を支配している悪魔のささやきを神からの託宣と思い込んでいる人々によって確率したものですが、ヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているように、信仰はイエス様によって与えられ確率されたものです。ところで、今日の聖句は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と、滅びに至る門といのちに至る門と門に続く道がどのようなものであるかについて語るとともに、人数についても触れています。コリント人への手紙 第一15章21節は「死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」と、罪の解決と死に対する答えを与えることができるのはキリスト以外におられないことを語っています。聖霊に満たされたペテロは他の使徒たちとともに立ち上がって大胆に福音を語ると3000人が救われたのでした。ヨナタンと道具持ちの二人によってイスラエルがペリシテ人に勝利するきっかけを作ったのでした(サムエル記 第一14章1節―23節)。イエス様は「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」と、弟子たちだけでなくキリスト者について語っています(ヨハネの福音書17章18節―20節)。日本はクリスチャン人口が1%と言われ、数から言ったら圧倒的に少数ですが、いのちの門、すなわち主を信じた私たちひとりひとりはイエス様に遣わされていることを心に留め、主に期待し、人々の救いのために祈ろうではありませんか。