わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。(詩篇42篇11節)

1.イザヤ書4030節―31
2.詩篇1830節―32
3.ルカの福音書2444節―49

ペテロの手紙 第一15節―9節が「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたは、イエス。キリストを見たことはないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」と、悲しみが喜びに変わることを語っていますが、その秘訣は、今日の聖句が「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」と語っているように、信仰の創始者であり完成者である主を待ち望むことにあるのではないでしょうか。なぜなら、イザヤ書4031節が「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」と語っているからではないでしょうか。鷲は40年を過ぎるあたりからくちばしは長く曲がり、爪が弱くなり、羽も重くなり、徐々に飛べなくなるので、くちばしや爪、羽を剥ぎ取って新しいものに生え替わるまで、じっと岩陰に隠れ、新しい羽が生えると、再び悠々と飛ぶことができる、ということです。ヘブル人への手紙122節―3節も「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と勧めています。心が萎えている時、私たちのためにいのちをささげてくださった主を見上げて祈り、主を誉めたたえるなら、聖霊さまのお働きによって新しい力と希望が湧いてきて、憂いに満ちた顔も明るくなるのではないでしょうか。