聖書箇所
もしも私の心に不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。(詩篇66篇18節―19節)
<関連聖句>
1.創世記4章1節ー17節
2.詩篇103篇8節―14節
3.ルカの福音書18章9節―14節
4.ヤコブの手紙4章1節―4節
<メッセージ>
パウロが「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善がすんでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ローマ人への手紙7章18節―24節)」と、葛藤しているように、この世で生きている限り、キリスト者であっても間違いを犯しながら生きていますが、「今は、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したのです。・・神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章1節―2節及び34節)」と、神の目には義とされていることを語っています。ですから、今日の聖句「もしも私の心に不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。」は、数々の罪を犯したダビデのことばです。彼は多くのさまざまな罪を犯しましたが、いつも主に立ち返ったのでした。ヘブル人への手紙4章15節―16節が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、祈りを心に留めてくださる主に心のうちを正直に話し、心の重荷を主に明け渡して生きようではありませんか。