聖書箇所
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9章10節)
<関連聖句>
1.詩篇111篇1節—10節
2.イザヤ書6章1節—8節
3.ヨハネの福音書1章1節—18節
<メッセージ>
人は知能指数によって人の賢さをはかるようなことをしますが、パウロは「十字架のことばは、滅びに至人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント人への手紙 第一1章18節—21節)」と、どんなにこの世に知恵にたけていても、人を創造されや神を知らないのであれば、それは真の賢さではないことを語っています。しかも今日の聖句は「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」と、知恵の初まりは、神を恐れる、すなわち神の偉大さに畏敬の念をもつことであることを、この世や人の知恵、すなわち哲学(宗教)は、いまだに地球誕生や人類誕生を探し、さまざまなことを悟ろうとしていますが、聖なる方を知ることが悟りであることを語っています。パウロは聖なる方、すなわちイエスを信じてキリスト者になることによって自分がいかにみじめであるかを知るとともに(ローマ人への手紙7章15節—24節)、恵みによって救われていることを(エペソ人への手紙2章1節—8節)、キリスト・イエスにある神の愛がどのようなものであるかを悟ったのでした(ローマ人への手紙8章38節—39節)。パウロのように自分を見てみじめと思うとき、みじめさの中に座り込むのではなく、パウロと同じように、神が御子を遣わされたのは、みじめな者を救うためであることを、キリスト・イエスにある神の愛がどのようなものであるかを、罪に定められないようにとりなしていてくださっているイエス様がいつも一緒におられることを知るようにしてくださったことを(悟らせてくださったことを)感謝して生きようではありませんか。