聖書箇所
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカの福音書24章49節)彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。(使徒の働き1章4節)
<関連聖句>
1.使徒の働き1章3節—8節
2.使徒の働き6章1節―10節
3.コリント人への手紙 第二10章1節—6節
4.ペテロの手紙 第二1章2節—3節
<メッセージ>
今日の聖句は「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と、キリスト者には聖霊が与えられていますが、「聖霊の力」に満たされるために祈るべきことを勧めていることと、「聖霊のバプテスマ」が与えられることを語っていますが、気をつけないと「聖霊のバプテスマ」を受けたかどうかを「異言」がでたかどうかに判断されがちですが、聖霊のバプテスマは、聖霊の力を受けることであり、パウロの「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世のものでもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目がみたことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです(コリント人への手紙 第一2章4節―10節)」ということばに、宣教の働きのためであることを、また、神の知恵に生きる者とされることを、信仰と聖霊の力に満たされたステパノは、人々の間ですばらしい不思議なわざとしるしを行なっただけでなく、さまざまな人々と議論をしましたが、ステパノに対抗することができる人がいなかった(使徒の働き6章8節―10節)という記事に見ることができます。今日は聖霊が下ったペンテコステの日を記念する」日です。神の知恵に生きるために聖霊に満たされるだけでなく、聖霊の力に満たされるように祈ろうではありませんか。