聖書箇所
義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(イザヤ書32章17節)
<関連聖句>
1.詩篇85篇8節—13節
2.コリント人への手紙 第一1章26節—30節
3.エペソ人への手紙2章14節—19節
4.コロサイ人への手紙3章9節—15節
<メッセージ>
キリスト者となったパウロは「私は八日目の割礼を受け、イスラエルの民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害するほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ人への手紙3章5節—9節)」と、義には「自分の義」と「神の義」があることを、その違いは「律法」に生きるのか、「信仰」で生きるのかによることであることを語っています。自分の義に生きていると、パウロが告白しているように、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えて祭司長たちからの権限をいただいてキリスト者を、教会を迫害していたように、平和を作るよりも敵を作ってしまうのではないでしょうか。しかも、イエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と尋ねられたように、キリスト者だけでなく神をも敵としてしまったのでした。ですから、今日の聖句が「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」と語っている「義」は神の義であり、神は御子を十字架につけられ、十字架の血によって神と和解、平和をもたらしたてくださったのでした。主に信頼する者は失望させられることがない、とみことばは語っています。この世が与えることができない神との平和をもたらしてくださったイエス様がいつもともにおられることを感謝し、主を信頼して生きようではありませんか。