聖書箇所
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネの福音書6章63節)
<関連聖句>
1.エゼキエル書37章1節―10節
2.ヨハネの福音書3章1節ー15節
3.ローマ人への手紙8章3節―15節
4.テモテへの手紙第二3章16節―17節
<メッセージ>
創世記2章7節は「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものなった。」とある一方、同章19節は「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるのかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」と人と他の動物との違いをはっきり語っています。そしてアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのままたべてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取ってたべるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられたのでした。アダムとエバは神が禁じたその木から取って食べたことによって、まず霊的な死が入ったことが、生きているエペソの教会の聖徒たちにキリストを信じる前の状態を「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章1節―3節)」と語っているパウロのことばに見ることができるのではないでしょうか。パウロは更に、イエス様が語られた今日の聖句「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」が語っているように「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ人への手紙7章18節)」と、肉は何の益ももたらさないどころか、心に葛藤をもたらすことを告白しています。キリスト者は御霊によって新しく生まれた者ですから、肉の思いや行いから守られ、豊かないのちに生きるために永遠のいのちのことばを持っておられるイエス様にとどまり、御霊によって書かれたみことばで生きようではありませんか。