ヘブル人への手紙2章10節
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方としてふさわしいことであったのです。
<関連聖句>
1.イザヤ書53章1節―10節
2.マタイの福音書16章13節―21節
3.ヘブル人への手紙5章7節―10節
<メッセージ>
すべての人はこの世に生まれてからこの世を去るまでの間、罪を積み上げながら生きており、箴言20章9節が「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。」と、詩篇130篇3節―4節が「主よ。あならがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」と語っているように、神は御子イエス様を「なだめの供え物」とお遣わしになり、罪過や罪に課せられる罰をイエス様に負わされ、イエス様を信じるすべての人に罪の赦しを与えられ、ローマ人への手紙3章23節―26節が「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」と語っているように、キリストを信じる信仰によって神から与えられる義を持つことができるようにしてくださったのですが、そのために今日の聖句が「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方としてふさわしいことであったのです。」と語っているように、今日はイエス様が苦しめられ十字架に釘付けされたことを覚える日です。イエス様は私たちが味わうべき苦しみを一身に引き受けてくださったことを心に刻み、主が喜ばれるように生きようではありませんか。