詩篇103篇10節―11節
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
<関連聖句>
1.哀歌3章22節―25節
2.ローマ人への手紙5章20節―21節
3.エペソ人への手紙2章1節―9節
<メッセージ>
イザヤが「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目でみたのだから。』すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』(イザヤ書6章1節―7節)」と、詩篇130篇3節が「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ。だれが御前に立ちえましょう。」と語っているように、聖なる神の前にはだれも誇ることができないばかりか、自分がいかに汚れているかを自覚するのではないでしょうか。
しかし、今日の聖句が「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」と語っているように、驚くべきことに神は御子イエス様をお遣わしくださり、どんな悪人も救われる道を開かれたのでした。パウロは「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ人への手紙5章20節)」と語っているように、間違いを犯した時には自分を責めるのではなく、そのために十字架があることを覚え、主の恵みに生きようではありませんか。