主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(アモス書5章18節ー20節)
1.哀歌3章33節ー41節
2.マタイの福音書24章1節ー14節
3.ルカの福音書12章13節ー31節
4.ヨハネの福音書5章19節ー30節
弟子たちがイエス様に神殿が壊される時や「あなたの来られる時やよの終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と、弟子たちが尋ねると、イエス様は、まず「人に惑わされないように気をつけなさい。」と仰せられてから、民族は民族に、国は国に敵対すること、方々にききんや地震が起きることを話されましたが、それらのことはみな、産みの苦しみの初めであることを、キリスト者が迫害される事をも話されるとともに(マタイの福音書24章1節ー9節)、マタイの福音書25章1節ー13節において主がキリスト者を迎えに来られる、すなわちパウロも「空中で主と会う」と語っているように、いわゆる主の空中再臨を待ち望んでいますし、ユダヤ人は主が地上に再臨される主の日を、すなわち、主が正義によって悪を滅ぼしてくださり、完全なる勝利をもたらしてくださる日のはずですが、今日の聖句は「主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。」と、驚くべきことを語っていますが、今日の聖句の「主の日」はイスラエルが罪を犯したために苦難が臨むことを語っているとともに、イスラエルの民に「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。(アモス書5章24節)」と勧告していますが、そこにはイスラエルの民が主に立ち返る事を願ってのことであることがわかります。神の正義は罪や悪を見過ごすことはできずに滅びをもたらしますが、神の正義はなだめの供物として御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになられ、十字架の死をもって神の義を現され、救いをもたらすものでもあるのです。哀歌3章33節は「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」とあります。このところ地震や大雨が日本を襲っていますが、黙示録には大患難時代において多くの方が主を信じることになることを語っているように、日本にリバイバルをもたらしてくださる日が近づいているのではないでしょうか。不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているこの世の神(コリント人への手紙第二4章2節ー4節)、すなわち、偶像崇拝から人々が解放されるように、福音宣教の働きが推し進められるように祈り続けようではありませんか。