主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。ー主の御告げー。(エレミヤ書9章23節ー24節)

1.イザヤ書46章1節ー13節
2.ヨハネの福音書1章14節ー18節
3.コリント人への手紙第一1章18節ー31節
4.エペソ人への手紙1章14節-21節

パウロが「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と変えてしまいました。(ローマ人への手紙1章20節ー23節)」と、語っているように、キリストを信じる前はの世を支配している悪魔の影響下にあるために(エペソ人への手紙2章2節)、人を創造された神の代わりに自分たちの考えで様々な像を造りーそのような像は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、足があっても歩くことができないような物であるにもかかわらずーそれを神として拝むことが敬虔なことと思っているのではないでしょうか。パウロは「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(コリント人への手紙第一1章21節)」と、ソロモンが日の下、すなわちこの世を見て「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでないことがわかった。すべての人が時と機械に出会うからだ。(伝道者の書9章11節)」と語っています。ですから主は「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。ー主の御告げー。』」と、世の人々が誇るようなものは一時的なものであることを心に据えて、私たちが信じている神がどんなに素晴らしい方なのかを忘れずに生きるようにしようではありませんか。