人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29章25節)

1.民数記13章1節ー14章30節(申命記1章19節ー33節)
2.イザヤ書40章18節ー22節
3.歴代誌第二20章1節ー26節
4.ローマ人への手紙8章18節ー29節

主はイスラエルの民を主が約束された地に導くために、荒野において昼は雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすために火の柱の中におられて民の前を進まれ、宿営する地をも示され民の前から離れるようなことがなかったにも関わらず、神が約束された地を目前にしながら、約束の地を探ってきた12人のうち約束の地について「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフリム人、ネフリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と悪く言ったので民はエジプトで死んでいた方がよかった、などと言い、「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちはあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々お恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなる体。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と助言したヨシュアとカレブを石で打ち殺そうと言い出したのでした。今日の聖句が人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」と語っているように、アナク人と自分たちを比較して、アナク人を恐れたために、主がいつも共にいてくださることを、主がどのような方なのかを忘れてしまったのではないでしょうか。結局民に20歳以上の者で約束の地に入ることができたのは殺されそうになったヨシュアとカレブだけでした。興味深いことにイザヤ書40章22節に「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。」と、あります。イスラエルの民のようでなく、ヨシュアとカレブのように主がいつも一緒にいてくださることを忘れずに、人を恐れるよちも主を信頼して生きるようにしようではありませんか。