神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして務め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル人への手紙4章10節ー11節)」

1.哀歌3章22節ー26節
2.マタイの福音書11章28節ー30節
3.コリント人への手紙第一15章3節ー10節
4.ガラテヤ」人への手紙2章20節ー21節

ダビデは「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。」と語ってから「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる(詩篇37篇1節及び5節)と、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者をゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55篇22)」と、ペテロも「あなたがたの重荷を、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配しているからです。」と、ゆだねるように勧めてから、彼自身が神のことを思わないで人のことを思わせる悪魔の罠に陥ったことがあったので(マタイの福音書16章23節)、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」と警告しています(ペテロの手紙第一5章7節ー8節)。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)」と約束されました。「ゆだねたつもり」でなく、「ゆだねる」ということはなかなか難しいものですが、委ねる秘訣は今日の聖句「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして務め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」に見ることができるのではないでしょうか。イエス様は私たちに安息を与えてくださることを、パウロのことば「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」を心に据えて、パウロが「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と勧めているように祈りや願いを申し上げ、神の安息の中に生きるようにしようではありませんか。