私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光だからだ。(ミカ書7章8節)
1.詩篇23篇1節ー6節
2.詩篇34篇11節ー20節
3.詩編37篇23節ー24節
4.箴言24章15節ー16節 」
被造物の立場でありながら、自分を神と同列に置こうとして高ぶったために地に落とされ、蛇に化身した悪魔とも呼ばれるサタンは、神の警告を直接聞いていなかったエバが罪を犯すように誘導し、アダムも妻の声に聞き従って食べて罪を犯した結果、人は死ぬ者、サタンの支配下に置かれてしまったのですが、神は罪や死、悪魔の手から罪人、すなわち全ての人を救うためにi御子イエス様を人としてこの世のお遣わしになったのでした。イエス様はイエス様を殺そうとしているユダヤ人に対して「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出たものであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。(ヨハネの福音書8章44節)」と語っているように、神がキリスト者を用いて宣教の働きを進めているように、悪魔も人をそそのかして真理に逆らうように、肉の思いで生きるように誘導するのです。しかも、キリスト者に対して火の矢を射ってくるのです。それゆえ、パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章12節)」と語っているように、真の敵は人ではなくサタン(悪魔)や悪霊であることを心に据えて、敵を間違えないようにしようではありませんか。ところで、パウロが肉の働きが強かったコリントの教会に行った時「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と告白するとともに、そのような状況下において彼はイエス様のことしか知らないようにし、御霊と御力による宣教の働きをされたのでした(コリント人への手紙第一2章1節ー4節)。今日の聖句が「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光だからだ。」と語っているように、敵が喜ぶように、一時的に恐れたり、心配したり、思い煩って苦悩することがありますが、そのような時にこそ、パウロのように、十字架にかけられたイエス様のことを、信仰がなくならないように祈っていてくださるイエス様のことを思うなら、不思議な平安と力が与えられるのではないでしょうか。
