私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章4節ー5節)
1.ローマ人への手紙8章33節ー39節
2.コロサイ人への手紙2章1節ー15節
3.ヘブル人への手紙10章12節ー23節
4.ペテロの手紙第一1章3節ー7節
パウロは、善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行できない自分に苦しみ「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。(ローマ人への手紙7章24節)」と語る一方「「律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ人への手紙3章6節)」とも語って意いるように、私たちも、自分を情けなく思って落ち込むことがある一方自分こそ正しいと思うような状態に陥って自分の義に生きてしまうようなことがあるのではないでしょうか。パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」と、自分がどう思うかではなく、正しい判断を下す方は主であることを、十字架によってもたらされた赦しやイエス様を信じることによって与えらる神の義を確信されて称賛が届くと大胆に語っています。私たちをさばく方は主であり、人ではないことを、一万タラント( 六千万デナリ)の負債、すなわち一日の報酬が一デナリとすると約164383年分の負債が赦されている、すなわち一生涯の罪は赦されているだけでなく取り除かれていることを。十字架の恵みを忘れずに、パウロと同じ信仰をもって、主からの平安をいただいて生きようではありませんか。