あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネの福音書15章8節)

1.イザヤ書43章1節ー7節
2.マタイの福音書10章24節ー25節
3.ヨハネの福音書13章1節ー15節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー11節

イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。・・・まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章17節及び20節)」と仰せられました。ところで、パリサイ人として生きていた時には神の義を知らずにキリスト者を迫害していましたが、キ リスト者となったパウロは、律法によっては罪の意識が生じるだけであり、律法を行うことによってはだれひとり神の前に義と認められないことを語るとともに(ローマ人への手紙3章20節)、夫婦関係を例にあげて、 キリスト者は死者の中からよみがえられたイエス様と結ばれたことによって神のために実を結んだことを、そしてイエス様を信じる前はこの世を去るまで罪を積み上げて生きているために「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」と、言われたのでした(ローマ人への手紙6章17節ー7章4節 )。イエス様は弟子たちに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と仰せられてから、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」と父なる神が栄光をお受けになるためには「わたしの弟子」すなわち、イエス様を師として生きるように仰せられました。パウロが肉に生きていたコリントの聖徒たちに「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください(コリント人への手紙第一11章1節)」と、勧めているようにキリストを師と仰ぎ見て生きようではありませんか。