だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうち包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。(箴言30章4節)

1.エレミヤ書9章23節ー24節
2.ヨハネの福音書1章1節ー18節
3.ヨハネの福音書3章1節ー21節
4.ヘブル人への手紙1章1節ー3節

パリサイ人として生きていた時のパウロは、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコへの途上でイエス様から声をかけられキリスト者となったパウロは「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント人への手紙第一1章20節ー21節)」と、人の知恵の愚かさを語っているように、いまだに多くの科学者たちは さまざまな惑星に探索機を送り、地球誕生の謎を解き明かそうとされたり、ハワイ島の山にドーム状の施設を作り、人は火星で生きられるかどうかを一年間火星にいる状態を想定して試みるようなことをしたのでした。今日の聖句は「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうち包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」と問いかけています。知能指数が高くても天地万物を創造された神を、罪や死から解放してくださるイエス様を知らないなら、自分では賢いと思っても実は愚か者であると聖書は語っています。この世の賢さではなく天地万物を創造された御子イエス様を知り、信じて生活することこそ、賢い生き方であり、幸いなことであることを心に留めて生きようではありませんか。