家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しもう。(詩篇118篇22節ー24節)
1.イザヤ書28章16節ー18節
2.マタイの福音書21章33節ー45節
3.使徒の働き4章1節ー12節
4.ペテロの手紙第一2章4節ー9節
イエス様はたとえ話を持ってご自身のことを話されるにあたって今日の聖句「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」を引用されご自身のことを語られたのでした(マタイの福音書21章33節ー42節)。ところで、「捨てた」と言うことばは、単に捨てるという意味ではなく、十字架にかけられたイエス様は人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。ととりなされたにもかかわらず、イエス様のことをあざ笑って「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言ったり、同じように十字架にかけられていながら犯罪人さえも「あなたはキリストではないか、自分と私たちを救え」と悪口をいったり(ルカの福音書23章35節ー39節)、道を行く人々はののしったり、あざけったりしたのでしたが(マタイの福音書27章39節ー41節)、イエス様のとりなしの祈りを耳にした犯罪人のひとりは悪口を言ったもうひとりの犯罪人に「おまえは神をも恐れないのか。お前も同じ刑を受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめてから「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と、死刑ですから何の希望のない者に希望を与えられたのでした(ルカの福音書23章40節ー43節)。イエス様は「「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」と仰せられました。救われていることを、今日も主が設けてくださった日であることを覚えて、今日を楽しむようにしようではありませんか。