私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章15節―16節)
1.ヨハネの福音書1章14節―17節
2.ヨハネの福音書2章23節―25節
3.コリント人への手紙第一2章1節―5節
4.ヘブル人への手紙10章1節―23節
ヨハネの福音書1章においてイエス様のことを「ことば」と表現され、恵みとまことに満ちておられる方であり、恵みとまことを実現され方であり、神を説き明かされるために遣わされたことを(ヨハネの福音書1章14節―18節)、ヘブル人への手紙2章10節は「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と、神が御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになられた目的と理由が明らかにされています。イエス様は悪魔の試みに会われただけでなく、ユダヤ人からも試みられ、最終的には十字架つけられましたが、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」ととりなして祈られ、大祭司としての務めを果たされたのでした。パウロはコリントの教会に行った時「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と告白していますが、そのような時、パウロは十字架につけられたイエス・キリストのことだけを思い「私のことばと宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」と語っています。今日の聖句が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、パウロのように、十字架の恵みを感謝し、恵みの座ですから、心のうちをすなおに主に申し上げ、主からの力や知恵をいただこうではありませんか。