わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水が押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。(ルカの福音書6章47節―48節)

1.コリント人への手紙第一3章10節―11節
2.コロサイ人への手紙2章1節―8節
3.ヤコブの手紙1章18節―25節
4.ペテロの手紙第一5章7節―11節

イエス様は「わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とご自身のことを「いのちのパン」と仰せられて、どんなときにも心の渇きを覚えることはない、と約束されたのでした(ヨハネの福音書6章35節)。パウロは「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語ってから、どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないことを確信しています、と告白していますが(ローマ人への手紙8章36節、38節ー39節)、それはすでに主が、神の子とされた者が罪を犯しても、新改訳:恵み、口語訳:いつくしみ、英訳:愛を取り去ることはない、とダビデに約束されていたことでした(サムエル記第二7章14節―15節)。ヘブル人への手紙13章7節―8節に「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思いなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。今日の聖句を心に据えて、迫害に会っても信仰を失わなかったパウロのように、ゆるがない人生を、満ち足りたる心を伴う敬虔さをもって歩むために(テモテへの手紙第一6章6節)、どんな時にも神の愛があること忘れず、岩なるキリストに根ざし、みことばを知っているだけに留まらず、人を欺く情欲(エペソ人への手紙4章22節)に惑わされず、みことばで生きるようにしようではありませんか。