私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章12節)
1.使徒の働き3章1節―16節
2.コリント人への手紙第二3章17節―4章6節
3.ヘブル人への手紙12章2節―3節
4.ヨハネの手紙第一5章14節―17節
パウロは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2章4節)」と語っていますが、神が望んでおられるのと同様に、キリスト者も家族や友人がイエス様を信じて救いの道を歩んで欲しいと願い、祈っていますが、特に家族の場合はなかなか願っているような状態を見ることができないばかりか、かえって落胆するようなことが起きると、祈りが足らないのではないか、とか「クリスチャンのくせに」と言われるようなことがあると、自分の生き方が証しになっていないからではないか、と心が自分を責める方向に向いてしまうのではないでしょうか。個人的にある三姉妹の方のお証しを伺ったことがあります。長女と三女の姉妹は次女の前では喧嘩しないように努力したそうですが、ある日、次女の方がいるのを忘れて大喧嘩をしたのですが、次女がいることを思い出して二人がお互いに謝ったそうです。すると、次女の方が「クリスチャンでも喧嘩するの」と言ったので色々話す中でイエス様を信じることになったそうです。クリスチャンのいない家庭でもクリスチャンが起こされますし、キリスト者を迫害していたにもかかわらずパウロは使徒となったことなどを思うと、信仰は主の恵みによって与えられるものであることを思います。ところで、パウロは福音が語られても信じる人と信じない人がいるその背景には「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(コリント人への手紙第二4章4節)」と語っています。ですからパウロは「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と語ったのではないでしょうか。主のみこころにかなった願いであれば必ず主が成就してくださることを忘れずに、 悪魔の策略に陥って自分を責めたり失望したり落胆しないで、主に期待し、感謝をもって家族のために祈り続けようではありませんか。