ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。わたしたちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。(詩篇68篇19節―20節)
1.マタイの福音書11章28節―30節
2.ローマ人への手紙8章28節ー39節
3.エペソ人への手紙2章1節―10節
4.コロサイ人への手紙2章1節ー14節
イエス様は過越の祭りの前に、この世を去って、父のみもとに行くべき時が来たのを知られ、弟子たちの足を洗われたのですが、ペテロが「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と申し上げたので、イエス様が「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」と答えると、ペテロが「決して私の足をお洗いにならないでください。」と申し上げたので、イエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と答えられたので「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」とペテロが言うと、イエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と、ユダは他の弟子たちと同様にイエス様と侵食をともにしていましたが、信じていなかったために「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」とユダのことを話されたのでした(ヨハネの福音書13章1節―11節)。ところで、足は毎日汚れます。人はこの世を去るまで日々罪を積み上げながら生きているために、時折、過去の失敗や過ちを思い起こして後悔して悩むことがあるのではないでしょうか。苦悩しても記憶から消すことはできません。ですから、人が解決できないいちばんの重荷は罪ですが十字架の死をもって罪の代価を支払ってくださり、死と死の力を持つ悪魔の手から救い出してくださったのです。ですから、パウロは「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、死からよみがえられた方であるイエス・キリストが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への8章24節)」と、キリスト者に与えられている特権を語るとともにどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すもことはできない、と大胆に語りました。愛をもって弟子たちの足を洗われたように、イエス様は日々、罪に定められないように私たちの足を洗っていてくださっているのです。罪や死、過去から完全に救われていることを感謝するとともに、ほむべきお方は主以外におられないことを心に据えて、人のとりこにならないように気をつけようではありませんか(コロサイ人への手紙2章9節)。