心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイの福音書5章8節)
1.詩篇16篇1節―9節
2.ヨハネの福音書3章1節―8節
3.ローマ人への手紙15章14節―16節
4.ヘブル人への手紙10章14節―22節
主は、サムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰せられ、父エッサイが考えもしなかったダビデに王としての油を注ぐように仰せられたように(サムエル記第一16章1節―12節、人はとかく外見で人を評価しがちですが、主は心を見ておられるのです。ダビデは主のみここにかなった者として選ばれたのですが、彼の生涯を見ると、数々の間違いを犯しました。しかし、彼はその都度、主に立ち返ったのでした。彼は「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身も安らかに住まおう。(詩篇16篇7節ー9節)」と、「いつも」、すなわち、ヤコブの手紙5章13節が「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」と語っているように逆境のときも順境の時もいつも恵みに満ちている主を見ておられたのでゆるぐことがなく、心が満たされた人生を歩むことができたのではないでしょうか。イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」と、心のきよい者に与えられる幸いは、神を見ることである、と仰せられました。すべての人はこの世を去るまで罪を積み上げて生きているために、心のきよさは人の努力や修行によるものではなく、十字架の血(ヘブル人への手紙10章22節)と聖霊の働き(ローマ人への手紙15章16節)によるものであることを心に据えて、イエス様を信じたことによって心がきよくされている幸いを感謝し、ダビデのように信仰の完成者であり恵みに満ちた主を日々仰ぎ見て生きることができることを喜んで生きようではありませんか。