たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇16節―17節)
1.エゼキエル書18章19節―32節
2.イザヤ書53章1節―10節
3.ローマ人への手紙7章15節―8章3節
4.ヘブル人への手紙10章1節―18節
人はとかく自己評価の中に生きてしまいがちですが、イエス様は自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものではなく、ことに取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とたとえ話をもって神の見解を語りました。イエス様に悪口を言った犯罪人に対してもうひとりの犯罪人は「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と彼をたしなめてからイエス様に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を救い出してください。」と申しあげると、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰せられたように、主は自分の罪やみじめさを認めることを神はさげすむどころか、救いをお与えになるのです。パウロは自分のみじめさを知ることによって神の恵みと神の愛の深さを知ったのでした。今日の聖句はダビデがバテシバと姦淫の罪を指摘され、自分の罪を悔いたときの賛歌です。肉の思いで行動して失敗し、悔いるようなことがあっても、後悔しながら生きるような生き方から救われるために、主はその失敗を主の御手に渡すなら、それを益としてくださる恵みの神であることを心に据えて生きようではありませんか。