私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121篇1節―2節)

1.イザヤ書497節―13
2.ヨハネの福音書11節―18
3.ローマ人への手紙1章20節ー25 節
4.コロサイ人への手紙220節―32

神のことばである聖書は人の知恵では解決できないすべての答えを、特にいまだに確かな答えが見つからずにさまざまな惑星に探索機を送って答えを得ようとしている地球や人の誕生について、創世記1章1節は「初めに、神は天と地を創造した。」と、同章27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女に創造した。」とすべての被造物は神によって、しかもイエス様によってすべてのものが創造されたことを語っていますが(ヨハネの福音書1章3節、ヘブル人への手紙1章2節)世全体を支配している悪魔はこの世の神として君臨し、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにし(コリント人への手紙第二4章4節)、人々が神や神のことばであるみことばではなく、人や人の知恵に助けを求めるように働いているだけでなく、人を殺すことを目的として働いています(ヨハネの福音書8章44節)。試練に会った時、物事を肯定的に考えれば解決するかのように提唱する人の知恵によって一時的には助けられるかもしれませんが、肯定的に物事を捉えることができない方にとっては、肯定的に考えられない自分に失望して、助けになると思っていた方法が、かえって苦しめる方向に働き、ますますうつむいてしまう方向に導いてしまうために勝利を見ることが難しいのではないでしょうか。ところで、パウロは「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない。(ローマ人への手紙1章20節)」と、被造物を見ることによって神がどのような偉大な方であるかがわかることを語っています。今日の聖句は「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」と、まことの助けは、人や人の知恵ではなく、天地を創造された主から与えられるものであることを、山が御神体ではなく、山を見ることによって神の創造を、人は神によって創造された存在であることを自覚することができるのではないでしょうか。どんなときにも天に座しておられ、信仰の完成者であり、私たちのためにとりなしていてくださる主を仰ぎ見て生活しようではありませんか。