神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が示されたのです。(ヨハネの手紙第一4章9節)
1.ヨハネの福音書1章14節―18節
2.ヨハネの福音書3章16節―18節
3.ローマ人への手紙6章17節―23節
4.ローマ人への手紙7章19節―8章4節
世の人々に「神」と言っても抵抗がなく受け入れられますが、イエス・キリストは神であることを話すと論議が交わされるようなことが起こるのではないでしょうか。問題は、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と願っても、神である主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と仰せられたように(出エジプト記33章18節及び20節)、だれも神を見たことがないことと、この世には教祖と言われる人々がたくさんおられ、さまざまな宗教があるために、比較宗教学という学問が示すようにキリストに生きる信仰もキリスト教という名のもとに宗教の一つと考えられてしまうからではないでしょうか。ところで、ヨハネの福音書1章18節は「いまだかつて神を見たものはいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と語っていますし、イエス様が「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったピリポに「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネの福音書14章」と仰せられたように、イエス様は神がどのような方であるかをはっきりとお示しくださったのでした。ユダヤ人たちにとって、全知全能で、義なる方、罪を裁かれる神が罪人と食事をともにすることなど考えられなかったのでしょう。今日の聖句が「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が示されたのです。」と語っているように、神は愛であること、その愛は人の概念をはるかに超越した愛であることを、永遠のいのちが与えられていることを知るように導かれたことを感謝するとともに、世の人々が神を知ることができるように祈ろうではありませんか。