サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼をしりぞけている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一16章6節―7節)

1.サムエル記第二165節―12
2.詩篇1391節―4
3.ヨハネの福音書223節―25
4.ヨハネの手紙第一3章18節―20節

主はサウルに次ぐイスラエルの王となる者に油を注ぐためにサムエルをエッサイのもとに遣わされたのでした。サムエルは長男エリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思いましたが、主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼をしりぞけている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰せられ、エッサイがサムエルの前に進ませた七人の息子たちではないことをエッサイに告げるとともに「こどもたちはこれで全部ですか。」と尋ねると、エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答えたので、人をやってその子、すなわちダビデを連れて来るように言ったので、エッサイは人をやってダビデを連れて来させると、主はサムエルに「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と主は仰せられ、エッサイの眼中になかったダビデが王となることを示されたのでした。神と会話できるサムエルでも外見で判断するような弱さを抱えていたように人はとかく外見で人を評価してしまいがちになるのではないでしょうか。では、神が選ばれたダビデは完全な人だったかというと、そうではなく、彼は自分のいのちを愛して偽りをもって祭司やアキシ王をだますようなことをしましたし、情欲にかられてバテシバとの姦淫の罪を犯すようなことをしましたが、主に立ち返って主との関係を回復しながら生きたので、使徒の働き13章22節には「わたしはエッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところ実行する」とあり、彼の罪は指摘されていません。神の選びは不思議です。イエス様は弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネの福音書15章16節)」と仰せられたように、人の評価がどうであれ、すべてのキリスト者は主に選ばれた者であることを、主は私たちの弱さをご存知でとりなしていてくださるという恵みを忘れずに、自分で自分責めるような時、悔いた心を喜ばれる主からの平安をいただくために、ダビデのように心を主に向けて、十字架の恵みを思い起こし、主をほめたたえて生きようではありませんか。