信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル人への手紙11章3節)
1.詩篇33篇1節―12節
2.詩篇119篇97節―98節
3.イザヤ書55章6節ー11節
4.ヨハネの福音書1章1節ー3節
箴言3章5節―7節は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れ、悪から離れよ。」と、自分の悟りや知恵に生きるよりも主を認めることを勧めています。キリスト者となったパウロは「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるものです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうとされたのです。(コリント人への手紙第一1章20節―21節)」と人の知恵の弱点を語る者となったのでした。確かに、科学者たちは、地球誕生や人間誕生の謎を解き明かそうと、さまざまな惑星に探索機を送り込んで研究していますが、いまだに確かな答えを出すことができていませんが、創世記1章1節―4節が「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。」と、イザヤ書55章11節が「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と語っているように、神のことばは単なることばではなく、実体を伴うものであることを語っていますが、それを受け止めることができるのは、今日の聖句は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と、信仰によるものであることを語っています。信仰によらなければ悟ることのできない世界があることを心に据えて、信仰を強めてくださるみことばの真理に生きようではありませんか。