御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。(詩篇9篇10節)

1.サムエル記第一1738節―49
2.詩篇3318節―21
3.ピリピ人への手紙26節−11
4.使徒の働き4章1節―31節

生まれつき足のなえた人は宮に入ろうとするペテロとヨハネを見て施しを求めたのですが、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなったので、おどり上がってまっすぐに立ち歩き出し、歩いたり、はねたりしながら神を賛美しつつペテロとヨハネと一緒に宮に入って行くのを見た人々が彼らのところに来たので、ペテロは彼が癒されたのは、ペテロの力とか信仰深さではなく、イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえであり、しかもその信仰はイエスによって与えられたものであることを、イエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えたので捕らえられましたが、翌日には民の指導者、長老、学者たちだけでなく大祭司の一族に「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人には与えられていないからです。」と大胆に証しされたのでした。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカの福音書22章33節)」と申し上げましたが、「覚悟」とは、自分を信じ、自分に拠り頼むことではないでしょうか。ペテロはイエス様が「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と預言されたようにイエス様を知らないと三度言い、ペテロは挫折しましたが、主の御名を知る者となり、主に拠り頼む者となったのでした。今日の聖句が「「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」と、語っているように死からよみがえられたイエス様はご自分の方からペテロや弟子たちにご自身を現されたのでした。私たちの感情が何を言おうと、主はどんなことがあっても、どんな時にも見捨てるような方でないことを心に留めるとともに。ペテロやダビデ(サムエル記第一17章45節)のように、主の御名を手紙の最後に添える敬具のようなものとして知っているのではなく、主の御名にはどれほどの威力、権威、栄光(詩篇29篇2節)があるのかを、本当の意味で主の御名を知る者となり、主に拠り頼む者となろうではありませんか。