私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル人への手紙13章15節)

1.詩篇951節―8
2.詩篇821
3.詩篇1001節―5
4.イザヤ書461節―10

パウロは同胞のユダヤ人から迫害され多くの苦難に会いましたが、驚くべきことに獄中からピリピの聖徒たちに「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)」と、「いつも主にあって」と喜びの源が主との関係にあること、どんなときにも主にある者として生きることを奨励しています。パウロとシラスは何度もむちで打たれた上に足かせを掛けられ牢に入れられたのですが、ふたりが真夜中ごろ神に祈り賛美の歌を歌っていると大地震が起こり牢のとびらがあき、人々の鎖が解かれただけでなく、看守と家族が救われ、パウロとシラスを家に招待して食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜ぶようなことが起きたのでした(使徒の働き16章16節―34節)。パウロとシラスが牢に入れられたことにも神のご計画があったのですが、パウロもシラスも何が起こるか予想だにしなかったと思いますが、彼らは悲惨な状態の中で賛美したのでした。パウロは「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、永遠の栄光をもたらすからです。(コリント人への手紙第二4章17節)」と語っています。イスラエルの民は荒野を旅したとき、幕屋の周りに各部族がテントを張りましたが、ユダ部族は東にテントを張りました。ユダは「主をほめたたえる」という賛美の意味があります。ユダ部族は太陽がのぼるのを最初に見ることができました。大軍が攻めてくるのを知り恐れたヨシャパテが「わたしたちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」と主に申し上げると、主は「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」と言われ、民が「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と、喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき主は勝利を与えられたのでした(歴代誌 第二20章1節ー24節)。どのようなときにも、どのような状況下に置かれても、主がどのような方であるかを、測り知れない神のご計画があることを認めて、今日の聖句が「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」と勧めているように、問題が大きくどうしてよいかわかららず苦悩するときにこそヨシャパテと民のように主をみあげようではありませんか。賛美は主ご自身なのですから(エレミヤ書17章14節)