あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。(エレミヤ書29章12節)

1.詩篇6616節―20
2.マタイの福音書7章7節ー11節
3.テサロニケへの手紙 第一516節―18
4.ヘブル人への手紙11章1節ー6節

葉のほかに何もないいちじくの木にイエス様が「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われると、その木が枯れてしまったのを見て驚いて「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」と言った弟子たちに、イエス様は「まことに、あなたがに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようになことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と、信仰を伴った祈りについて語られました(マタイの福音そ21章19節ー22節)。クリスチャンのお年寄りのご婦人が窓から見える山に向かって「イエス様が仰せられたように、動いて、海に入れ」と言ってカーテンを閉めて就寝され、翌朝、カーテンを開いて窓からの景色を見ると昨日と同じように山があったので「ああ、やっぱり」と笑わって話されたいう話を伺ったことがあります。みことばをもって祈っていても、信仰が伴わない祈りであったことを、また動機(ヤコブの手紙4章3節)の問題を思わされますが、否定的であろうと、肯定的であろうと自分の考えですでに結果を想定して祈ると言うようなことはどなたにでも起こり得ることではないでしょうか。山が海に移る必要があれば主はそのようにされたでしょうが、山が海に移るということは地変変動が起こることで、大惨事が起きる可能性があるために主は彼女の願いに答えられなかったのではないでしょうか。パウロが三度祈っても癒されなかったのは、高ぶらないためであることを悟ったように、たとえ信仰をもって祈っても結果は主が出されることであり、その結果は最善であることを、また主のみこころにかなった祈りであってもは結果がもたらされるのは主の時があることを(伝道者の書3章11節、ダニエル書10章12節―13 節)考えながら、主が「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」と仰せられていることを心に据えて、「主は私たちの祈りをお聞きくださる。」という信仰をもって毎日祈り続ける生活を実践するように心がけようではありませんか。