無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
1.マタイの意福音書6章7節―13節
2.コリント人への手紙 第二 2章10節―11節
3.コロサイ人への手紙3章2節―13節
「祈るときには、こう言いなさい。父よ。御名がほめたたえられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」と、祈りは人ではなく神に向かってささげられるものであること、「赦し」は神との関係だけでなく人間関係においてもなすべきこととであることを、しかも赦さない人がいないようにすることを教えておられます(ルカの福音書11章1節―4節)。ヨハネの福音書1章18節は「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」と語っています。十字架にかけられたイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」と、とりなして祈られ、神は愛であることを、愛は「赦し」であることを示されました。ところで、ヨハネの手紙 第一4章12節は「いまだかつて、だれも神を見た者はいません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのです。」と語っています。それは、イエス様が神の愛を示されたように、キリスト者同士が愛し合う、すなわち赦し合うことによって世の人々が神を知るようになることを示唆しているのではないでしょうか。神の愛は、敵をも愛するものであり、情による人の愛とは全く質の異なったものであり、神の愛は聖霊によって与えられるものなのでキリスト者しか持っていません。今日の聖句は「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、赦せない人を赦すことができる秘訣を語っているのではないでしょうか。全生涯の罪や過ちがすべて取り除かれていることを思い起こし、「赦せない」罪から救われるために十字架を仰ぎ見てお互いに赦し合いながら神の愛にいきることができるように主に助けていただこうではありませんか。