神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3章16節―17節)

1.ヨハネの福音書524節―27
2.ヨハネの福音書638節―40
3.ローマ人への手紙5章6節―21節

主はアダムに「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16節―17節)」と、自由を与えるとともに、従うべきことを話されたのですが、アダムは妻エバの声に聞き従って神が禁じられた善悪の知識の木の実を食べて罪を犯したことによって主が仰せられたように人類に死が臨むことになったのですが、今日の聖句が「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と語っているように、神は御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになり、十字架の死をもって神のさばきや罪によってもたらされる罰から救われる道を開いてくださっただけでなく、イエス様を信じた者には死に勝利した永遠のいのちを与えてくださるのです。しかも、その救いは世の人々、すなわち全世界のあらゆる人々に及ぶものであることを語っています。人はこの世に誕生してからこの世を去るまで罪や咎(あやまち)を積み上げながら生活しているものであるために、箴言20章9節が「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。」と、死後、神の前に自分を誇ることのできる人はひとりもいないことを語っています。パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙 第一4章4節―5節)」とキリスト者の全生涯の罪は十字架で支払われているために罪やあやまちがさばかれることがなく称賛が届くという驚くべき恵みを語っています。十字架で示された主の恵みと神の愛の中に生かされていることを感謝するとともに、世の人々が神の愛と救い主であるイエス様を知ることができるように祈ろうではありませんか。