まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。(詩篇107篇9節)

1.ヨハネの福音書43節―28節及び39節―42
2.ヨハネの福音書626節―35
3.ヨハネの福音書737節―39
4.ヤコブの手紙1章12節―17節

ソロモンは「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけようと考えた。(伝道者の書2章3節)」と、「愚かさ」すなわち、詩篇53篇1節が「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」と語っているように、神を考慮しないこの世の人々と同じ目線でこの世を探索した結果、一般的には物が豊かになれば心も豊かになり満ち足りると考えがちですが「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。」と語っています。なぜなら、ヨハネが「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネの手紙 第一 2章15節―16節)」と語っているように、世と調子を合わせて生きていると、欲やプライドに支配され、常に自分の欲を満たすものを探し求めながら肉、すなわち自我に生きてしまい、たましいが満足することがないのではないでしょうか。イエス様はサマリヤの女性に「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネの福音書4章14節)」と、井戸から汲み上げる水は一時的にはのどの渇きをうるおすことができても、手でさわることができないたましいは、イエス様が「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。(ヨハネの福音書7章38節)」と仰せられたように、たましいをうるおすことができるのはイエス様であり、しかもそれは御霊によるものであることを「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネの福音書7章39節)」ということばに見ることができます。サマリヤの女性はイエス様がすべてご存知であることを知って、自分の水がめを置いて、人々に「来て、見てください。私のしたことを全部私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」とイエス様のことを伝えたのでした。たましいが飢え渇きを覚えるとき、主は罪や世全体を支配している悪しき者である悪魔の手から救い出してくださっただけでなく、この世や人の知恵が与えることができない、死をもってしても滅ぼすことができない永遠のいのちが与えられていることを感謝し、今日の聖句のように「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」と、人々に主を紹介しようではありませんか。