主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。(詩篇27篇1節)
1.詩篇46篇1節―3節
2.ヨハネの福音書1章1節―17節
3.ローマ人への手紙8章28節―39節
モーセがモアブの地で亡くなると、イスラエルの民はモアブの草原で三十日間喪に服していましたが、人の心をご存知な主はヨシュアに「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前にたちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ、雄々しくあれ。わたしが彼らに与えると先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」と仰せられてから「強くあれ、雄々しくあれ」と二度、合計すると三度繰り返してヨシュアに仰せられて励まされたのですが、三度仰せになったことを思うと、モーセの後を任されたヨシュアは自信に満ちていたのではないことがわかります。サタンとも呼ばれる悪魔はキリスト者に触れることはできませんが(ヨハネの手紙 第一5章18節)、火矢を放って挑んで(いどんで)きますが、それを消すためには信仰の大楯が必要であることをパウロは語っています(エペソ人への手紙6章16節)。サタンは光の御使に変装し(コリント人への手紙 第二11章14節)、エバを騙したように、いかにも真実を語っているかのように私たちの思いにささやき、キリストに生きるのではなく自分に固執し、自分の利益を求めるように仕向け、神関係よりも人間関係に心を向けさせ(マタイの福音書16章23節)、この世や人の知恵に惑わされてみことばを知っていてもみことばに生きないように仕向けるのではないでしょうか。ヨブ記1章と2章に記述されている主とサタンとの対話に見られるように、主の許しなしに悪魔は攻撃できないことを、しかも悪魔に「ヨブのいのちには触れるな」と命じられたように、攻撃できる限度も制限されているのですから、さまざまな問題や悩みが悪魔からの攻撃と思えるような時、今日の聖句「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」を思い起こし、悪魔の攻撃さえも私たちが主をどのように知っているかを吟味させてくださる機会、ととらえて主が喜ばれるように、今、与えられている信仰に立って主を信頼して生きようではありませんか。。