神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル人への手紙6章10節)
1.マタイの福音書10章40節―42節
2.マタイの福音書25章31節―40節
3.ペテロの手紙 第一 4章7節−11節
ソロモンは「ひとつの時代は去り、次の時代が来る。・・・先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。(伝道者の書1章4節及び11節)」と、人々から忘れられてしまう時が来ることを語っていますが、黙示録20章12節―13節は「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も、御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別に一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」と今見ている地も天も消滅した後、すべての人とその行いはすべて記録されており、神にさばかれることを語っています。パウロは「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ、悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(コリント人への手紙 第二 5章10節)」と、キリスト者もこの世でどのように生きていたかが明らかにされることを語っていますが、その報いについて、「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙 第一4章4節−5節)」と、神から与えられる報酬は「称賛」と語っています。キリスト者もダビデのように間違いを犯すことがあり、自分で自分を罪に定めるようなことをしてしまいがちですが、そのような時、とりなしていてくださるがおられる主がおられることを、全生涯の罪は十字架で支払われているからです。今日の聖句「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」を心に据え、人から忘れられるような存在であっても、永遠の神が覚えていてくださることを、しかも贖われているがゆえに、神から称賛される者とされていることを感謝し、キリスト者に与えられている神の愛をもって、パウロが「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)」と勧めているように、聖霊によって与えらている神の愛で、主が喜ばれるように教職者はじめ兄弟姉妹のために祈る生活をしようではありませんか。