まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。(詩篇137篇6節)

1.ルカの福音書146節―55
2.ルカの福音書1619節―31
3.ピリピ人への手紙26節―11

アサフは「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。こうして彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。』見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」と、神はイスラエル、すなわち神の民や心のきよい人々にいつくしみ深いことを知ってはいても、神をあなどっている人の生き方を見て悩みましたが「私は、神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。」と、神を考慮しないで高ぶる者は、死後、この世での生き方を神に裁かれることを語っています(詩篇73篇1節―17節)。主は、今日の聖句が「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」と語っているように、毎日ぜいたくに遊び暮して全身おできの貧しいラザロを顧みなかった金持ちは、死後、火の炎の中で苦しむことになり、金持ちの門前に寝ていても顧みられなかったラザロはアブラハムのふところで慰めを受けたことを語られました。アサフは、主がともにおられたにも関わらず目に見える状況だけにとらわれてしまって、思い悩んでいた時は、愚かで獣のようであった、と告白しています。神を認めずに高ぶっている人々の生き方に心を悩ますのではなく、高ぶっている人々も主を知って救われる必要があることを心に留め、とりなして祈ろうではありませんか。