まことに、主はこう仰せられる「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
1.箴言16章1節—3節
2.ローマ人への手紙4章25節—5章5節
3.ローマ人への手紙11章22節—12章1節
詩篇119篇77節は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と、「苦しみ」にも意味があることを私たちに教えています。ペテロは神の御力によってキリスト者は守られているにも関わらず、この世では信仰の試練に会いますが、それは将来、称賛と光栄と栄誉になるという希望があることを語っています(ペテロの手紙 第一1章5節—7節)。今日の聖句は「まことに、主はこう仰せられる『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』」と、神はイスラエルの民が罪を犯したためにバビロン帝国によってエルサレムが崩壊することを、民がバビロンに捕囚として連れて行かれることを許されましたが、主はその期間を七十年と決められ、その期間が終わったらエルサレムに帰還できることを預言されるとともにイスラエルの民に対して神にはご計画があることを、しかもそれは平安だけでなく将来と希望を与えるものであることを約束していますが、それはイスラエルの民と同じように神の民、神の家族とされているキリスト者にも言えることではないでしょうか。私たちもみことばを知っていながらも、みことばに生きないでさまざまな失敗をくり返して苦悩することがありますが、パウロが「罪の増し加わるところに恵みも増し加わる」と語っているように、失敗するごとに十字架を仰ぎ見て、全生涯の罪が十字架で支払われている神の恵みの深さを知るとともに、やがて私たちのからだは贖われ(ローマ人への手紙8章23節)罪を犯させようとする肉(ローマ人への手紙7章25節)から完全に解放されるという望みが与えられていること、永遠に主とともに神の御国に生きられるという将来が与えられていることはなんと幸いなことでしょうか。