聖書箇所

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ人への手紙12章3節)

<関連聖句>

1.コリント人への手紙 第一1章4節ー12節
2.コリント人への手紙 第一 31節―9
3.コリント人への手紙 第一44節―20
4.ヘブル人への手紙12章2節ー4節

<メッセージ>

イエス様がご自身を「いのちのパン」と称して「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。いける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる物は永遠に生きます。」と話されると、弟子たちの多くの者はイエス様にその真意を尋ねることをせずに、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って弟子たちの多くの者が離れ去ってしまったように(ヨハネの福音書6章56節―60)、信仰者であってもみことばよりも自分の考えを優先させてしまうことがあるのではないでしょうか。福音書の弟子たちはイエス様から汚れた霊どもを制する権威を授けられ、イスラエルの民に「天の御国が近づいた」と伝えるように遣わされましたが(マタイの福音書10章)、弟子たちは、自分たちの中で、だれが一番偉いかなどと議論をするような生き方をしていたのでした。パウロはコリントの教会について、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、きりすとにあって豊かな者とされていることを、キリストについてのあかしが確かになっていること、どんな賜物にも欠けるところがなく、熱心に主イエス・キリストの現れを待っているような模範的なキリスト者であることを評価していますが、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているような状態では「ただの人」すなわち、世の人と同じような生き方をしている、と言われました(コリント人への手紙1章4節―12節及び3章3節―4節)。パウロは「私は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(コリント人への手紙第一15章9節―10節)」と、語っているように、私たちも恵みによって救われたことを心に留め、パウロが「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と、勧めているように、私たちひとりひとりの信仰を完成させてくださるのは主であることをも心に留め、他者と比較するようなことはやめて、今、与えられている信仰を喜んで生きようではありませんか。