聖書箇所

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。(ヨハネの福音書1章16節―17節)

<関連聖句>

1.ルカの福音書736節―43
2.使徒の働き1315節―43
3.ローマ人への手紙517節―21
4.ヘブル人への手紙4章14節―16節

<メッセージ>

ヘブル人への手紙10章1節―4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいてくる人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところが、かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」と、律法によっては罪の意識が生じるだけであり、罪は赦されても取り除くことができないことを語っていますが、バプテスマのヨハネがイエス様のことを「見よ。世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネの福音書1章29節)」と、言われたようにイエス様はどんな罪も赦してくださるだけでなく取り除いてくださるのです。ヘブル人への手紙4章16節は「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と、失敗を繰り返すたびに悔いて自分を責めるのではなく、その失敗のために十字架があることを覚えて主の恵みを感謝して生きるなら、ローマ人への手紙5章20節「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」を、今日の聖句「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。」を体験できるのではないでしょうか。律法は罪を意識させますが、恵みは罪を取り除いてくださるだけでなく、主の恵みと神の愛の深さを知るように導いてくださるのではないでしょうか。イエス様によって実現された恵みに生き続けようではありませんか。