エレミヤ書23章23節―24節

わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ― 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―

<関連聖句>

1.サムエル記 第一 10章17節―24節
2.詩篇139篇1節―16節
3.使徒の働き17章16節―31節

<メッセージ>

人は神によって創造された存在でありながら、神が禁じられた善悪の知識の木から取って食べたなら、目が開けて神のようになり、善悪を知るようになる、と語った悪魔のことばを信じて食べた結果、自分たちが裸であるのを知り、自分たちの考えでいちじくの葉をつづりあわせて腰のおおいを作ったように、自分たちの考えで物事を判断するような生き方をするようになったのではないでしょうか。

今日の聖句が「わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ―遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―」と、語っているような神概念を持たずにローマ人への手紙1章20節―23節が「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」と語っているような生き方をしているのではないでしょうか。

キリスト者でも、主は見ておられる、主は心の中のはかりごともご存知であることを忘れると、パウロが「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めていません。(ピリピ人への手紙3章21節)」と語っているように主の御心を求めるよりも世の人々と同じような価値観や比較の世界に生きてしまうのではないでしょうか。見かけで物事を判断するのではなく、主がすべてをご存知であることを心に留めて恵みとまことに満ちておられる主との関係を吟味しながら生きようではありませんか。