もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(ペテロの手紙 第一3章17節―18節)

1.ヨハネの福音書141節―6
2.使徒の働き222節―40
3.ローマ人への手紙7章19節ー8章3節
4.ヘブル人への手紙9章24節ー28節

新型コロナがという病をだれも想像していませんでしたし、将来どのような病が起こるかもわからないように、人はこの世を去るまでの一生の間、何が起こるかわからないだけでなく、死後どうなるのか皆目見当がつかないものですが、イエス様は、パウロが聖徒たちを迫害しているのを聞いていたアナニヤに「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。(使徒の働き9章13節―16節)」と、また、弟子たちに「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)」と、また、世の終わりについても話されただけでなく(マタイの福音書24章―25章)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)」と神のみもと、すなわち天国に行く道はイエス様にあることを話されたように、イエス様はすべてをご存知なだけでなく人が最も必要としている死後の答えを与えてくださったのです。イエス様が死人の中からよみがえられたとき、弟子たちはイエス様のことばを思い起こして聖書とエス様が言われたことばとを信じることになり(ヨハネの福音書2章22節)、迫害を受けても福音宣教の働きを推し進めたのでした。キリスト教は排他的というような非難を受けたときなど、今日の聖句「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」を思い起こして、十字架にかけられたイエス様が人々のために祈られたように、人々の心の目が開かれ、父のみもと、すなわち天国への道であるイエス様を信じる信仰を主が与えてくださるように祈ろうではありませんか。