何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ人への手紙3章23節)

1.マタイの福音書25章31節ー40節
2.ローマ人への手紙14章7節ー18節
3.エペソ人への手紙65節―7
4.ピリピ人への手紙26節―10

人は何かの拍子で人間関係がギクシャクすると口に出すか出さないかの違いはあっても「あんなにしてやったのに」という思いになりやすいのではないでしょうか。人はとかく気分で仕えることをしてしまいがちになるのではないでしょうか。ところで、イエス様は「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人の、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。(マルコの福音書10章35節ー45節)」と仰せられたように、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ、十字架の死までも従われ(ピリピ人への手紙2章6節―8節)、仕えるために必要な本質を示されたのではないでしょうか。ところで、今日の聖句の前句にも「奴隷たちよ。すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。」とエペソ人への手紙6章5節―9節にも「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人にしたがいなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。」と「奴隷」ということばがあります。ところで、人は人の奴隷になっていなくても、生まれながら罪の力に支配され罪の奴隷でしたが、イエス様を信じることによって、罪から解放されて義の奴隷、神の奴隷とされ永遠のいのちを持つ者とされたのです。奴隷は買い取られた存在であり、自分のために生きるのではなく、一生涯買い取った主人のもとで生活し、主人の言うことに従う立場にあります。今日の聖句「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」を、私たちを救うために十字架の死にまで従われた主の姿を忘れずに、人々に仕えるようにしようではありませんか。