私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ人への手紙6章6節―7節)

1.ローマ人への手紙616節―23
2.エペソ人への手紙4章17節ー24節
3.コロサイ人への手紙32節―15
4.ヘブル人への手紙10章14節―22節

バプテスマのヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と、イエス様は罪を取り除く方であることを語っています。ですから、今日の聖句が「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と語っているように、キリスト者の全生涯の罪は全て取り除かれており、十字架にかけられた主によって罪のためのささげ物はもはや無用になっていることをヘブル人への手紙10章14節―18節は語っていますが、人は過去の失敗や過ちを思い起こしては悩むような状態、罪から解放されているにもかかわらず、罪の奴隷に陥ってしまうことが多々あるのではないでしょうか。しかも、イエス様は主の祈りをお教えくださってから「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。(マタイの福音書6章14節)」と加害者ではなく被害者に対して語っているように、「赦さいない」という罪があることを指摘されました。キリスト者でも十字架の恵みを忘れると、「赦せない」という罪の奴隷になって苦しむようなことがあるのではないでしょうか。「赦さない」という罪の根底には、「自分の義」や「プライド」の問題があり、それが長く続くと、赦すことができないばかりか、復讐したくなるような思いが湧き上がってくるのではないでしょうか。そのような状態から脱する道は今日の聖句にあるように「古い人」すなわち、生まれながらの私は死んでいること、全生涯の罪から解放するためにどれほどの犠牲が払われたかを思うことによるのではないでしょうか。イエス様を信じたことによって罪人であった古い人である「私」はキリストにあって死んでいることを思い起こしながら、日々新しくしてくださる主を信仰を完成させて下される主を仰ぎ見て、救われていることを感謝して生きようではありませんか。