神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)

1.イザヤ書5715節―19
2.ルカの福音書189節―14
3.ヤコブの手紙41節―10

サタン(悪魔)は、元来、神に仕える御使であったにもかかわらず、被造物である立場をわきまえず、自分を神と同等になろうと高ぶって地に落とされ、エバに対して善悪の知識の木から取って食べたなら「神のようになり、善悪を知るようになる」と誘惑したので、エバは自分にとって好ましいと思い、その実を取って食べ、いっしょにいたアダムに渡すと、アダムは神の警告を直接聞いていただけでなく、エバとサタンとの会話を聞いていながら、サタンのことばが真理かどうかを神に確かめることもせず、妻の声に聞き従って食べてしまい罪を犯してしまったのですが、サタンと同じように高ぶりであったのです。ですから、人は自信を持つように、プライドを持つように勧めるのではないでしょうか。全能者なる神を知らないと自分と他者を比較し、なんらかの高ぶりをもってしまうのではないでしょうか。パウロもキリスト者になる前は「律法による義についてはなんら非難されるところのない者」と豪語していましたが、ダマスコの途上でイエス様から声をかけられるとともに視力を失い、人の助けなしにはダマスコに行くことができないことを経験され、自分の無力さを思い知らされたのではないでしょうか。やがてキリスト者となった彼は「弱さ」は誇りましたが、もはや自分を誇る者ではなく自分のみじめさを知るとともに神の愛と恵みの深さを知る者となったのでした。私たちは多くの点で失敗するように(ヤコブの手紙3章2節)、ダビデもさまざまな失敗をしましたが、悔いて主に立ち返ると、主は常に回復を与えてくださったことを経験したダビデのことばである今日の聖句「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」を心に据えて、自分を「なさけない」と思ったり、過去に悩まされて後悔するようなとき、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人を神が義と認めてくださったことを思い起こし(ルカの福音書18章13節)、パウロと同じように神の愛や恵みの深さを味わおうではありませんか。