あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ人への手紙2章8節)

1.ヨハネの福音書1章14節ー17節
2.ローマ人への手紙56節―17
3.エペソ人への手紙13節―14
4.テモテへの手紙 第二 1章9節―10節

パウロはエペソの教会の聖徒たちに「あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、そのころは、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章1節―3節)」とイエス様を信じる前の状態を語っていますが、今日の聖句は「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と、死をもたらす罪や神の怒りから救われるのはこの世や人の知恵や人の努力ではなく、神からの賜物であり、それは恵みとまことを実現されたイエス・キリストを信じることによって与えられるものであることを語っています。ところで、ローマ人への手紙6章23節も「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)」と、神が与えてくださる賜物について語っていますが、時折、他のキリスト者と自分を比較して「私には賜物がないから何もできない。」というような方がおられますが、そのようなことが起きる原因は、いやしや預言や異言など御霊によって与えられる賜物に心が奪われてしまうからではないでしょうか。ところで、パウロは「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれても、引かれて言った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』ということはできません。(コリント人への手紙 第一12章1節―3節)」と語ってから御霊の賜物について語っています。いやしや預言、異言の賜物がなくても他のキリスト者と比較せず、神からの賜物で最も大切なのは「救い」や「永遠のいのち」であること、すべてのキリスト者には救われている保証として御霊が与えられていることを心に据え、罪や死だけでなく神の怒りからも救われていることを、永遠のいのちが与えられていることを喜んで生活しようではありませんか。