誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれを喜ぶからだ。―主の御告げー(エレミヤ書9章24節)

1.詩篇341節―8
2.コリント人への手紙 第一 119節―31
3.コリント人への手紙 第二 10章10節―17節

パリサイ人として生きていた時のパウロは、神のことばである律法に精通していましたが、聖霊を持たず、ユダヤ人や自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を迫害し、エルサレムだけでなくダマスコにまでも出かけていったのですが、その途上でイエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。(使徒の働き26章9節―」と声をかけられ、ダマスコにいる彼のもとにアナニヤを遣わされて癒しだけでなく聖霊に満たされるようにされ(使徒の働き9章17節)、使徒としての召しを与えられたのでした。キリスト者となったパウロは同胞のユダヤ人について「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ人への手紙10章2節―3節)」と、神に熱心であっても、ユダヤ人たちはヨハネの福音書1章11節が「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と語っているように、ダビデの子として来られた御子イエス様を受け入れることをしないどころか、パリサイ人として生きていた時のパウロ同様、彼らが待ち望んでいたメシアであることに気づかず、十字架につけてしまったのでした。ところで、今日の聖句の前句に「主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。』」と、主の警告のことばがあります。毎日、新型コロナウイルスに関する報道がなされ、多くの方が恐怖の中にいますが、人の知恵や力や富を誇っていても恐れに対抗することができない弱さを暴露しているのではないでしょうか。主は恵みとあわれみに満ちた方で、私たちの弱さをよくご存知であり、私たちの願いや祈りをお聞きくださる方です。しかも、自分では耐えられないと思うような試練でもコリント人への手紙 第一10章13節は「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方で耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」と語っています。今日の聖句が「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれを喜ぶからだ。―主の御告げー」と語っているように、主がどのような方であるかを知っている幸いを感謝して生きようではありませんか。