信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル人への手紙12章2節)

1.使徒の働き31節―16
2.使徒の働き26章9節ー20節
3.ローマ人への手紙1010節―17

とかく「信仰」は自分の考えによるものであるかのように考えがちですが、イエス様は「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と言った弟子たちに、「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしひとりを残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」と仰せられたのでした(ヨハネの福音書16章29節―32節)。また、ペテロに「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22章31節―32節)」と仰せられたイエス様のことばに、信仰はなくなる可能性があることを、信仰に生きることができる背後に、イエス様の祈りがあることから、だれも「私の信仰」と言って誇ることはできないのではないでしょうか。聖霊に満たされたペテロは生まれつき足のなえた人が癒されたのはペテロの力とか信仰深さではなく、イエスの御名を信じる信仰のゆえであり、イエスによって与えられる信仰によるものであることを人々に証しされました(使徒の働き3章1節―16節)。パウロはアテネの町が偶像でいっぱいなのを見て「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたが宗教心にあつい方々と見ております。(使徒の働き17章22節)」と言われたように、神は信じる力を人に与えてくださっていますが、信じる力を何に、だれに、結びつけていくかによって宗教心と信仰の違いがでてくるのではないでしょうか。自分と他のキリスト者の信仰を比べて優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりしないように、今日の聖句が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているように、各自の信仰はイエス様によるものであることを忘れないように生きようではありませんか。