神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)
1.ローマ人への手紙3章19節ー30節
2.ローマ人への手紙8章33節ー34節
3.コリント人への手紙1章26節ー31節
4. ピリピ人への手紙3章2節ー9節
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と仰せられたから「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と警告されました。ところで、 イエス様は自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちを神は義とお認めにならないことをたとえ話をもって話されました(ルカの福音書18章9節ー14節)。キリスト者になったパウロは、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められず、かえって律法によっては、罪の意識が生じることを語ってから、「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、示された神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべて信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3章20節ー24節)」と語るとともに「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と驚くべきことに、イエス様を信じたすべてのキリスト者は神の義とされていることを語っています。十字架の死を、恵みを無駄にしないように、キリストにの中にある者として、自分の義ではなく神の義に生きるようにしようではありませんか。
